宗偏流[二世]_留学宗引

宗偏流[二世]_留学宗引

宗偏流[二世]_留学宗引

 宗偏の後を継いだ宗引は偉大な父の影に隠れてしまっているためか、現在に残る伝聞が多くはありません。しかし、この二世の代継ぎには、現在から見るといかにも宗偏流らしい、いくつかの紆余曲折があります。
 当初、宗偏流の跡を、というよりは小笠原家茶頭を誰に託すかという話があったとき、宗偏の息子は2人とも武家として小笠原家に仕えていたため、宗偏はその門弟から優秀なものを推挙しようとしたそうです。最初は塗師でもあった榎本宗吾に声をかけたところ、宗吾はこれを頑なに拒みます。では、と次に目を付けたのが同じく高弟の岡村宗伯です。しかし宗伯もこれを固辞するという前代未聞の事態です。あるいは、血縁でないことを理由に拒んだのかもしれませんが、宗偏の自由な気風が弟子たちにも伝わって、堅苦しい大名家の茶頭を嫌ったのかもしれないと邪推してみるのも楽しいものです。困った宗偏が選んだのが甥でした。宗偏の妹が嫁いだ福与久庵に竣嘉という息子があり、これを宗偏の子、久右衛門(後に宗屋)の女婿として迎え、ようやく正式に茶頭の地位を譲ることができました。時に宗引40歳のことだったと伝えられています。
 ひとつ興味深いのは、記録は少ないがその茶杓を削る腕前について、いずれもが絶賛していることです。優れた茶杓は、形の妙、景色の良し悪しなどとは別に、その全体的なさまを見て竹が「生きている」「生きていない」と評価することがありますが、宗引が削りだした茶杓は、実に生き生きとしていたのでしょう。本歌(箇)は山田家に伝来しており、多くの人々によっていくつもの写しが作られたとも伝えられています。宗偏が小笠原家茶頭の職を宗引に譲ったのが、小笠原家が武蔵岩槻に移封される折でした。その後宗引は武蔵岩槻、次の遠江掛川への転封にも従い、掛川に居を定めています。終生小笠原家に尽くした生き方は、自由人と評されることもある宗偏とは対照的なようにも写ります。 時として時習軒派のような宗偏の高弟たちによる宗偏流分派のほうが広く伝わり、知られるようになったのも、宗引に見られるように、小笠原家茶頭の務めに終始することが多かったことによるのかもしれません。

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