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「宗偏流[八世]_外学宗有_希斎(如恒子)」
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宗偏流[八世]_外学宗有_希斎(如恒子)

宗偏流[八世]_外学宗有_希斎(如恒子)

 多士済々の茶道界にあって、ことさら異彩を放つのが、宗偏流八世宗有でしょう。明治時代にトルコと日本の関係の基礎を作り、実業家として活躍し、晩年には茶人としても多くの事跡を残しています。
 「多才」などという言葉ではくくれない大人物でした。生まれは上州沼田藩の江戸家老の職にあった中村家。幼名を寅次郎といいます。十六歳の時に、俳句の宗匠であった前田国橘の仲介により山田家に養子入りしました。宗寿の死後は宗偏流の後見も務めていた龍野藩主・脇坂安斐から茶を学んでいます。しかし、18歳で宗寿が逝去した際には家元を継ぐことを拒み、言論界に活躍の場を見出すようになります。

実業家としても茶人としても多くの軌跡を残す

 転機となったのは、明治23年、和歌山県沖で起きたトルコの軍艦エルトゥールル号の遭難事故です。寅次郎はこの遺族らに義捐金を送ることを発案し、日本各地を遊説して現在の価値で1億円にも上る義捐金を集めます。この義捐金を送る際に、時の外務大臣青木周蔵の勧めがあり、自身で渡土することになりました。トルコでは熱烈な歓迎を受け、国王・アブデュルハミト2世に拝謁し、山田家伝来の甲冑を贈っています。そして、その後トルコに商店を開き日土貿易の事業化、士官学校で日本語を教えるなど18年に渡って日本とトルコの関係強化に努めました。現在なおトルコが親日国であるのは、山田寅次郎が長年に渡ってトルコのために尽力したことに拠るところが大きいです。
 その後、第一次世界大戦の勃発とともに帰国、製紙会社を起こし実業家として活躍します。しかし、帰国してからも家元を継ぐことはせず、結局宗寿の死後40年経った1923年(大正12年)、57歳にしてようやく家元を襲名しました。この40年の空位時代は、各地の宗偏流、時習軒派にとって苦難の時代ではありましたが、逆に各地の茶人同士が宗偏流を守るために連絡を密に取り合い緊密な関係になり、後の同門会結成の基盤となりました。
 宗有は代継ぎしてからも実業界からは手を引きませんでしたが、茶の世界でも大いに活躍しています。襲名後まもなく、宗偏流の機関誌となる『知音』を創刊。昭和19年には同門会である「明道会」を組織し、現代宗偏流の基礎を作りました。昭和23年に実業界を引退し、その後10年に渡って茶の湯に専心し、昭和32年、90歳で大往生を遂げました。