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「宗偏流[十世]_成学宗囲」
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宗偏流[十世]_成学宗囲

宗偏流[十世]_成学宗囲

 十世宗囲は、別の字(あざな)として開祖と同じ「宗偏」を名乗っています。広い茶の湯の世界を見渡してみても、通字として使うことはあっても、開祖、流祖の名をそのまま襲うことはありません。この宗偏襲名は当時の茶道会に大きな波紋を投げかけました。そもそも宗囲が宗偏を名乗った背景には、小笠原家茶頭としての長い歴史が影響していると考えられています。
 宗偏流は、宗旦の侘び茶の世界をよく引き継いでいるとはいえ、小笠原家に代々仕えることで武家茶道としての性格を色濃く持つようになりました。それは武家の完全相伝で外に漏れることがまったくなく、一般性に欠けるという特徴です。また、江戸時代の終焉に当たり、いかに宗偏流が小笠原家に依存していたかを痛感したとも伝えられています。このように図らずも変節してきた宗偏流を、再び初代宗偏の自由闊達な茶風に戻したい。そんな強い思いがあり、宗囲は宗偏を名乗るようになったそうです。
 宗偏誕生350年記念の式典のときに、長男を後継者に定める伝承式を行いましたが、その席の始まりを三品検校の琵琶で飾ったのは、初代宗偏が優れた琵琶の作り手であったことに因んでいます。ここにも、初代宗偏の自由高貴な茶風への回帰、宗囲の並々ならぬ意思が感じられます。ちなみに初代宗偏は生涯に57面の琵琶を作っており、現存しているのは3面のみとされています。
 宗囲の業績として最大のものが一条恵観山荘の移転事業です。一条恵観は後陽成天皇の子で、仏門に入る前は一条昭良を名乗り、摂政・関白を務めています。落飾して恵観となってから、寛永年間ごろに賀茂に山荘を営みました。現在「一条恵観山荘」と呼ばれるのはこの山荘にあった茶室であり、宗囲の手によって鎌倉に移設され、「止観亭」と呼ばれるようになりました。国の重要文化財に指定されており、宗偏流の初釜のときにだけ使用されています。また、多くの著作を残しており、そこここに書いた文章をまとめた『茶道の神髄を語る』では、口伝で伝えられることの多かった宗偏流の歴史をまとめた物の他、フィクション風にまとめた表題作が宗囲独特の軽妙さにあふれ、読み応えも十分な作品となっています。