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表千家 [二代] 少庵宗淳 少庵
 千家2代目の少庵宗淳は、もっとも苦しい千家受難の時期を過ごした人物です。利休が秀吉の命により切腹、一家が離散したときに家督を継ぎ、苦難ののちに千家を再興させました。 後に千家家督を継ぐ少庵宗淳ですが、利休の実子ではありませんでした。利休の後妻の連れ子で、実父は諸説さまざまあり確実なことは分かっていません。とはいえ、の才覚に優れ、その天分は利休も認めていたようです。しかし、常に実子で長男の道安を立てる控えめな性格であったと伝えられています。
 利休が切腹を命じられた際には、その高弟・蒲生氏郷を頼り会津若松の鶴ヶ城に逃れました。その後3年の年月を経て、徳川家康・蒲生氏郷の嘆願もあってようやく赦しを得て京に戻ります。しかし、兄・道安が堺の千家本家を継ぎ、後嗣を得ないまま早々に断絶したため、京の千家を継いだ少庵が本流となったのでした。こうした事情のためか、少庵はわずか数年で隠居し、家督を宗旦に譲ってしまいます。生涯仕官もせず、利休の普及に尽力したと伝えられています。また、のちに宗旦が利休茶道を極めつくし「中興の祖」と呼ばれ一時代を築いたため、偉大な先代と次代に挟まれ、少庵の扱いは茶道の歴史の中では比較的小さいといえます。 しかし、それは少庵のの手が劣っていたことを意味してはいません。利休の思想を引き継ぎ、後の時代にしっかりと残した少庵の功績は余りあるものがあります。茶道具に関しても、生前の利休とともに合作したこともあり、少庵好の作品は非常に多く現代にも伝えられています。

ときに垣間見える優美さ

 その好みは利休にも通じる質素と簡素さに溢れながらも、ときにそのシルエットには優美さが垣間見えます。仕官し、武将としての性格も併せ持っていた利休の武張った部分をそぎ落としたのが少庵だったと言えるかもしれません。 のちに「侘び宗旦」と呼ばれるほど侘び茶に徹した宗旦が、少庵考案の作品を多く作らせていることからも分かるように、少庵好は利休茶道をしっかりと汲みつつも、次の時代へとつながる可能性を秘めた傑作でもあったのです。

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