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日本画 竹内栖鳳

竹内栖鳳 班猫

日本画・竹内栖鳳は、1864年、京都市中京区の川魚料理店「亀政」の長男として生まれました。かの有名な日本画家、横山大観と並び称される京都画壇の重鎮としてその名を轟かせた竹内栖鳳は、本名を竹内恒吉といい、円山四条派の伝統に則った写生を基軸としながらも、因習的な表現を避け、西洋画の技法を巧みに取り込み、それまでにない斬新な画風を生み出していきました。 栖鳳は、幸野楳嶺らに絵を学び、幼少期からその才能の片鱗を見せました。1896年には京都市立美術工芸学校の教諭として、教育活動を開始した栖鳳は、1900年のパリの万国博覧会に「雪中操雀」を出品し、銅牌を受賞する栄誉に輝きます。その年、博覧会の視察をかねてヨーロッパを旅行し、精力的に各地を訪れました。7ヶ月に渡って、オランダ、ベルギー、ロンドンといった都市をまわり、その際、コローやターナーに感激し、西洋画法をも積極的に摂取しました。帰国後はアントワープで取材したライオンを題材にした「獅子」を発表して、周囲の驚かせることに成功して、見事一等金牌を受賞します。そして、水彩画的な表現を取り入れた「ベニスの月」(1904年制作)などで日本画壇に新風を吹き込みました。 その後、1908年に開設された第一回文展から審査員を務めるなど、京都画壇をリードする存在として君臨した栖鳳は、私塾でも後進の指導にあたり、上村松園をはじめとして、土田麦僊、徳岡神泉らの逸材を育て上げるなど、教育者としての一面も合わせもっていました。また、重要文化財に指定されている「班猫」(1924年制作)など代表作を制作。さらに、明治42年京都市立絵画専門学校教授、大正2年帝室技芸員、同8年大国美術院会員となり、1937年には、第1回文化勲章を受賞するという栄誉に輝きます。 そんな栖鳳でありましたが、戦争中は、軍部に協力的な態度を示さざるを得ませんでした。そして、戦争終結前の1942年、78歳で息を引き取りました。

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