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日本画 荒井寛方

荒井寛方

 日本画家の荒井寛方(あらいかんぽう)は1878年(明治11年)に栃木県の氏家町に生まれた仏画家です。生家は紋所や提灯の上絵を描くのを生業としていましたが、父が南画を学んでいた影響で21歳の頃に上京し、浮世絵の大家である水野年方の弟子となります。仏画を描くことになったきっかけは、24歳の頃に国華社に入社して与えられた仕事が、古美術雑誌『国華』で掲載する木製複製図版用の仏画を模写する仕事であり、これが彼を仏画の世界へと引き込んだきっかけでもあります。29歳の頃に第1回の文展(文部省美術展覧会、現・日本美術展覧会=日展)に「菩提樹下」を出品して入選し、以後4年間連続して入選を果たすなど仏画家としての名を高めて行きました。そうした彼に援助の手を差し伸べてくれたのが原三渓(神奈川県横浜市にある三渓園の創始者)でした。以後生活の基盤を得て作画に没頭出来るようになって数多くの仏画を残しました。その頃に描かれた「竹林の聴方」は現在の三渓記念館に飾られており、釈迦を画面の外に想定して聴聞を聞く民衆の姿にスポットを当てた構図と衣服の描法はみごとなものです。
 そんな荒井寛方の人生の転機となったのは、三渓園での詩人ラビンドラナート・タゴールとの出会いでしょう。タゴールに招かれたインドの地でアジャンター石窟の壁画を模写し、その芸域を広めるとともにこうした文化財の貴重な価値を後世に残すという使命感を得たのかもしれません。帰国後は仏画の制作だけではなく1940年(昭和15年、62歳頃)から「法隆寺金堂壁画」の模写事業を引き受けたのもインドでの体験があったからに違いありません。それ以降、住まいを法隆寺近くの斑鳩の里にある阿彌陀院に移し、模写に力を注ぐ晩年でした。しかし昭和20年、志半ばで病に倒れ帰らぬ人となってしまいましたが、事業は継承され、さらに長い年月を重ねて複写されていきました。このおかげで法隆寺が火災に遭い消失したにもかかわらず復興を見ることが出来たのは、ひとえに彼の複写事業があったからこそです。
 今改めて荒井寛方の代表作「観音」を見ると、おだやかで気品にあふれた荒井寛方の画は、私たちの心を優しく包み込んでくれるようであります。

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