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「楽焼[十二代]_弘入」
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楽焼[十二代]_弘入

楽焼[十二代]_弘入

 十二代弘入は明治4年、15歳で代を継いでいます。明治初期は文明開化の時代であり、旧弊を廃し、文化の新風がはやった時代です。当時、当世の流行廃りを番付表に見立てて並べた戯言の一種がありましたが、そのひとつ『目今形勢 興廃競』では、“不流行”の大関が金紋先箱(大名行列の荷運びで使う紋入りの箱)、次いで関脇に「茶器の価」と挙げられており、どれだけ茶の湯が軽んじられていたかを物語っています。そのためか、弘入も若い頃はあまり作品を残していません。作品の多くは晩年に作られたものと伝えられています。
 作風は全体に厚造りで、のびやかでゆったりとした風情です。無理がないおおらかさといっても良いかもしれません。若かりし頃の作には「覇気がある」とする向きもありますが、覇気と呼ぶような強さではなく、切実な訴えのようにも映ります。この頃は井戸形の作が多くあり、緊張感を感じさせるものもあります。黒茶碗は、高台・腰が高く、繊細さを感じさせるものも多く、色は、光沢を持ちつつも枯れた雰囲気の黄褐色を含んだものを好んでいたようです。赤茶碗は、やや枯淡とした赤の中に青い窯変を出すことを得意としています。また、時としてたゆたうような波を思い起こさせる装飾的な箆目や、二重に幕釉を使う工夫を編み出しました。
 隠居するまでは「楽」の字の白の左が算用数字の「8」に見える「8楽印」を使用しています。非常に特徴的な印なので見分けるのが比較的簡単と言えるでしょう。しかし、34歳の時に行われた長次郎三百年忌の際に焼いた赤茶碗三百碗だけは、表千家十一世の碌々斎が筆をとった年忌用の草書印を使用しています。若い頃は受難の時代でしたが、明治11年、13年と続けて開催された北野献茶をきっかけに徐々に茶の湯復興の機運は高まり、楽家にも余裕が生まれます。大正8年に隠居した後は、昭和7年で逝去するまで京都の本邸と、九代の了入が隠棲したという別荘との間を往復する優雅な生活を送ったそうです。

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