鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)

鹿子木孟郎

洋画家、鹿子木孟郎は明治7年、岡山県に生まれました。父は池田藩士。孟郎は伯父の鹿子木姓を継いでいます。8歳のときに父が商売で失敗して破産し、兄はすぐに小学校教員となり家族を養いました。明治19年、14歳のときに長兄の尽力によって松原三五郎の画塾「天彩学舎」に入学。早くから才能が開花され、水彩の「野菜」などが残されています。明治23年3ヶ月ほど東京に遊学して雑誌社に勤務して画業に励んでいましたが、病気にかかり、やむなく帰郷しました。岡山に帰って、中学校予備校の教員になりましたが、肖像画家として旅行をするため、予備校の職も辞して、家族の応援を得て、肖像画家として絵画の研鑽をしながら、肖像画を売ってそのお金でもう一度東京に遊学する資金をつくりました。長兄の勧めから明治25年から3年弱、小山正太郎の指導する不同舎に学びました。このときの彼の作品は当時の画家の意外な行動範囲や明治の東京の姿を知る上で貴重な資料となっています。「ショールをまとえる婦人」などがそのころの作品です。特にこの絵は、近づいて見ると平坦な塗りなのに離れて見ると絵が浮き上がって立体感が出ます。影が不明瞭な感じでも、全体の色調とバランスはくずさない画風であります。

生涯を芸術に捧げた鹿子木孟郎

20歳のとき、文部省の洋画家検定試験を受けて首席で合格。中等教員図画科免許状をもらいます。長兄がこのころ亡くなり、彼の肩には家族を養わなければならない責任がかかりました。滋賀県の中学校助教諭を経て、三重県津市の教員に赴任。後輩に赤松麟作がいます。鹿子木孟郎は3回フランス留学をしており、アメリカ、ジブラルタル、シべリア、マルセイユなど、各国を周り、研鑽を積みました。フランス留学では、ジャン=ポール・ローランスに師事し、アカデミズムを習い、自分の画風を築いていきました。彼の習作の「津の停車場」は、日本が近代化に沸く明治30年代のころの現実があります。駅舎や鉄道を主題に扱った最初のころの作の一因になったからです。彼が新妻を写生した場所は「駅舎」であるという背景に日清戦争と日露戦争の間の近代日本の姿が隠れていることも事実であります。 フランス帰国後は、京都に居を構え、制作活動と京都高等工芸学校、画塾「アカデミー鹿子木」で後進を指導しました。1941年、亡くなるまで関西美術院長や帝展の審査員をつとめました。

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