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古書 石川啄木

石川啄木

 石川啄木の本名は石川一(いしかわはじめ)。その生涯は波乱万丈だったと言われています。岩手の日戸村(現在、盛岡市玉山区の方)の曹洞宗の日照山常光寺の住職の長男として父、石川一禎と母、カツの間に生まれます。
 1887年(明治20)の春、父の石川一禎は、北岩手郡渋民村(現玉山区渋民)宝徳寺の住職になったことで、一家はこの村に移り住みます。石川啄木が生涯「ふるさと」とよんで懐かしがったのはこの渋民村で、現在では石川啄木記念館があります。石川啄木は岩手郡渋民尋常小学校を卒業後、盛岡高等小学校に進み、1898年4月13歳のとき、128名中10番の好成績で岩手県盛岡尋常中学校に入学します。この中学時代に後の妻となる堀合節子、そして親友の岡山不衣、金田一京助達と巡り会います。

 石川啄木は「明星」という新詩社機関誌として発行されていた雑誌の影響で、与謝野晶子等の短歌に憧れを抱き、また野村胡堂氏らの影響を受けて文学への道を進むことになります。この頃、短歌の会である「白羊会」を結成。そして、1901年(明治34年)に「岩手日報」へ短歌を投稿し「翠江」という筆名で掲載されました。これが現存する石川啄木の短歌で活字となった最初の作品です。しかし、文学と恋愛に熱中するあまり、上級学年に進むにつれ学業を怠り、4年生の学年末と5年生の1学期の試験にカンニング事件を起こし、これが原因となって盛岡中学校を退学します。文学を生業にするという美名のもとに1902年(明治35年)の秋上京し、雑誌「明星」への投稿での繋がりで新詩社の集会に参加し、与謝野鉄幹与謝野晶子夫妻らと知り合いました。その頃は希望していた出版社への就職等が上手く行かず、石川啄木本人の結核も発病し、一度故郷へと帰る事になります。結核発病後も文学への思いは募り、その道をあきらめず、「明星」での活動を続け、「明星」が終刊した後も「スバル」創刊準備に携わりました。苦労のかいあって、「スバル」の発行名義人となり、日本朝日新聞社で校正係りとして就職もできました。この頃からローマ字で日記を書くようになります。後の「ローマ字日記」です。彼の日々が赤裸々に記されているのですが、描写されている出来事を金田一春彦は「啄木の借金のほとんどは遊興に使われ、その為貧困が続いていた」とも語っています。その後も様々な事が起こりますが、執筆活動を続け、教職を経験し親妻子を支えていきますが、肺結核のために26歳の若さで亡くなってしまします。その葬儀には夏目漱石らも参列したといわれています。自らがきっかけではありますが石川啄木の人生は波乱万丈で、才能あふれる彼にはあまりにも短い人生だったといえるのではないでしょうか。

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