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「熊谷守一」
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熊谷守一

熊谷守一

洋画・熊谷守一は1881年、 岐阜県恵那郡付知村に熊谷孫六郎の三男として生まれました。父は岐阜市で生糸商を営み、岐阜市の初代市長、衆議院議員を歴任したほどの人物だったそうです。熊谷は画家の道を志しますが、息子を商人に仕立てようとしていた父親の大反対を受けてしまいます。結局、反対を押し切る形で1901年、東京美術学校に入学。当時の同級生には、青木繁や和田三造、山下新太郎らがいました。1905年、熊谷は、東京美術学校を卒業します。卒業制作では、自画像を描いたそうです。不運なことに、在学中、父の急死と破産にあってしまいます。丁度、卒業したときに日露戦争の最中だったので、樺太漁場調査隊に雇われるなどして、食いつないでいきました。類稀なる才能を持っていながら、絵画だけではなかなか食べていけるようにならなかった熊谷。彼は、いい絵を描いて有名になるという野心に欠ける部分があったことも災いして、長いこと千駄木、東中野の借家を転々として、友人の援助を受けながら生活を続けました。1932年、現在、熊谷守一美術館がある豊島区に来た頃から、少しずつ絵が売れるようになり、家族を養えるようになっていきました。子どもが描くような絵、ぬり絵やはり絵のような絵を描くのが熊谷だといわれていました。自然体で生きる彼の姿は「仙人」とも一部でよばれ、自由気ままな立ち舞い、そしてその精神から、まれに見る自由闊達な画境に達したと考えられています。熊谷は写実に徹した絵画を描き、一時期、表現主義的な画風を展開しました。対象物を的確にとらえ、簡潔に描かれた対象物は抽象化され、素朴さのなかに品がある熊谷特有の画風が生まれたのは、1939年頃のことです。著書のタイトルにもなった「へたも絵のうち」は、熊谷守一が世間一般に通用していた絵画に対するアンチテーゼであったと考えられます。熊谷は、1977年6月末、呼吸困難を訴えて床につき、8月1日に97歳で永眠しました。その8年後、1985年には、熊谷が四十数年住んだ豊島区に熊谷守一美術館が建設され、今でも私たちは彼の作品を味わうことができるのです。

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