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「裏千家[十二代] 直叟宗室 又妙斎」
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裏千家[十二代] 直叟宗室 又妙斎

直叟宗室 又妙斎

 異才の茶人、玄々斎の後を継いだ又妙斎は京の名家、角倉家から婿養子に入った人物です。明治初期の苦渋の時を、玄々斎とともに乗り切り、後代のためにの普及に努めました。代継ぎをしたのは婿入りした20歳のとき。明治4年、玄々斎はこれを機に隠居しますが、翌年には京都府庁に対して建白を行っており、実際にはしばらく二人三脚で裏千家を守ったようです。
 明治5年に跡継ぎとなる後の圓能斎が誕生、明治10年には玄々斎が逝去します。玄々斎の努力もあって、明治の新風の中でも茶の湯の権威は保たれたものの、宗家にとってはつらい時期が続きます。その中で又妙斎は援護に徹することにし、家督は早々に圓能斎に譲ります。時に又妙斎34歳、圓能斎13歳のことでした。

形にとらわれない自由な洒脱さ

 又妙斎の妻は、後に真精院と称するようになる女傑茶人、玄々斎の娘・猶鹿(子)で、圓能斎への茶の湯の指導を妻に託し、自らは奈良、淡路、大阪、堺を転々とし、各地で茶人、門人を育てていきます。奈良では豪商・関藤次郎の所有する依水園の作庭に協力して数寄屋の茶室を作り、藤次郎はじめ多くの財界人にを指導しています。こうした地方での普及活動は、後の裏千家の隆盛を底上げする形で大いに役立ちました。
 又妙斎自身は旅を枕にする清貧の生活を貫きましたが、北野天神の献茶、裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼での献茶などの大きな茶会での活躍も見られ、好み物は総じて少ないものの、茶会にちなんだ名のある好み物を残しています。そのひとつが住吉釜です。住吉大社に伝わる釜を模したもので、又妙斎自身が描いたという意匠が施され、持ち手良く、優雅な美しさを持つ名品として好まれました。これは炉と風炉一対の珍しい品になっています。 その他にも、生家に近い加茂川の蛇籠に見立てた加茂川籠花入、松の木肌を生かし、舟の形を模した舟香合の蜑少女(あまおとめ)などが有名です。手作り、好み物ともに、形にとらわれない自由な洒脱さがあり、現代にも通じる高い意匠性を持っており、又妙斎の優れた感性と奔放な性格をうかがわせます。

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