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靉光

靉光

洋画家 靉光(あいみつ)の存在は昭和初期の日本美術のひとつの結節点であったかもしれません。シュルレアルの影響を受けつつ、独自の画風を切り開いた靉光の作品は、彼の死後、高く評価されることになります。明治40年広島県に生まれ、幼少のころから画才を示したといわれています。大阪の画塾を経て、昭和元年に18歳で上京、太平洋画会へ。そこで学びながら、さまざまなタッチ、画風の作品を多く残しています。写実的な画風から、印象派の作品、後のシュルレアル的な作品まで、非常に幅が広く、しかもどの作品も高い水準にありました。

 しかし、彼自身は納得することがなかったそうです。この昭和初年から10年の期間、彼の作品はさまざまなバラエティーに富んでいます。代表作のひとつである『編み物をする女』では溶かしたロウやグアッシュを使うなど、さまざまな技法も試しています。そして、10年あまりの苦悶の後、彼がたどり着いたのが代表作『ライオン』の連作、『眼のある風景』などの極度に内面化した作品群でした。シュルレアルの影響を多分に受けながら、中国の宋画・元画の影響も見られます。写実的絵画から、自己の内面下で再構築した「現実」を描き出そうとる絵画への転換。自己に厳しく問いかけるため、作品には大きな喜びがある反面、大きな産みの苦しみがあったに違いありません。

 絵画表現の可能性に対する不安と期待は、戦争に突き進む時代が孕んでいた不安と期待をそのまま反映したものだったのかもしれません。時代が戦争へと突き進み始め、戦意高揚のため戦争画が推奨されるようになったとき、彼はひたすら自画像に専心したそうです。それは戦争に対する静かな否定であったのでしょう。しかし、昭和19年、彼はその否定し続けた戦争に召集され大陸へ。そして、終戦を大陸で迎えたものの帰国を果たすことなく上海で病床につき、不帰の人となりました。描きたいものを極めようと魂を削り、戦争を否定し、否定した戦争に死んだ靉光。彼の生家は広島にあり、彼の作品の多くは原子力爆弾のため文字通り消失しています。病の床で彼が最後に見た光景は何だったのでしょうか。

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