【銀座本店:絵画買取】須田剋太 抽象画
須田剋太の生い立ち
須田剋太は、1906年に埼玉県北足立郡吹上町(現:埼玉県鴻巣市)で生まれました。
ゴッホや写楽の影響で画家になることを志しましたが、東京美術学校(現:東京芸大)を4回受験するもすべて失敗。独学で絵を学ぶこととなります。
そんな中、画家・寺内萬治郎がその才能を見いだし光風会への出品を勧め、1935年に光風会展に入選。翌年には文展(文部省美術展覧会)に初入選しました。
1942年に東大寺観音院住職・上司海雲に土蔵の提供を受けアトリエとし、新文展や日展などで入選を重ねていきましたが、1949年には画家・長谷川三郎との出会いを機に、抽象画を制作するようになり、光風会を辞して国画会の会員となりました。
その後個展を開催したり国内外の美術展に出品を続け、西宮市民文化賞・兵庫県文化賞・大阪文化賞など受賞。
1969年には毎日新聞連載、作家・犬養道子の「日本人の記録 犬養木堂」の挿絵を、1971年には週刊朝日連載、作家・司馬遼太郎の「街道をゆく」の挿絵の担当を開始。
司馬遼太郎に同行しながら挿絵の制作にあたり、「街道をゆく」の挿絵原画は1990年2月の発行分の第897回まで毎月8枚から10枚ほど描かれ続けました。掲載紙ではモノクロ印刷で用いられていたものの、全て彩色されていたそうです。
晩年には、手元にあった全ての作品を大阪府・埼玉県立近代美術館・飯田市美術博物館といった公的機関にそれぞれ数百~数千点ずつ寄贈したことでも話題になりました。
須田剋太の作風
須田剋太の初期の頃の作品の多くは具象画がメインとなります。1949年の長谷川三郎との出会いをきっかけに、一転して抽象画を制作するようになりました。
ダイナミックで力強いタッチで描かれる構図や色彩が、その作風の特徴といえると思います。純真無垢でエネルギーに満ち溢れており、モチーフとしたそのものの本質を描いているようにも感じられますね。
須田剋太の作品で特に知られているものの1つに、「ピンクのターバン」が挙げられます。戦前から戦後にかけ官展で活躍した須田剋太が、1947年に日展で特選を受賞した作品です。こちらをじっと見据えているように描かれた女性は、奈良の新薬師寺に寄寓中に知り合い結婚した静夫人をモデルにしたといわれております。
浦和画家・須田剋太
須田剋太は「浦和画家」のひとりと言われています。
浦和画家とは、旧浦和市に多く居住していた文化人・芸術家の総称のことで、特に浦和には画家が多く居住しアトリエを構えた画家も多く存在し、文学者の多い鎌倉市の「鎌倉文士」に並び「浦和画家」と称されました。
画家以外にも彫刻家や詩人が居住し、文化人同士の交流も盛んだったと言われています。
須田剋太も若き日に浦和で生活する中で、様々な文化人達と交流し、作品を制作する上で良い影響を与え合ったことでしょう。