日本を代表する画家・東山魁夷とは。生命への感謝と祈りを風景画に込める
東山魁夷(ひがしやまかいい)は、日本の風景画で有名な昭和を代表する画家です。透明感のある淡い色合いや、「東山ブルー」とも呼ばれる青や緑を印象的に使って描かれた風景画は、見る人の心を揺さぶり、自然への畏敬の念を感じさせます。
作品への評価は高く、宮内庁からの依頼で皇居の壁画を数回にわたり手掛け、また唐招提寺の障壁画の制作にも関わるなど、数々の功績を残しています。
現在でもたびたび個展が開かれており、今なお人気は衰えません。この記事では、90歳までの長い人生を懸けて風景画に挑んだ東山魁夷の生い立ちや作品についてご紹介します。
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国民的画家・東山魁夷。描き続けた90年の生涯
▲障壁画「黄山暁雲」を制作した「唐招提寺御影堂」
東山魁夷の学生時代。日本画と西洋画の両方を学ぶ
東山魁夷は1908年7月8日、神奈川県横浜市に生まれました。本名は「新吉」、「魁夷」は雅号(文筆家や芸術家などがつける風雅な名前)です。3歳のときに一家で神戸に引っ越します。
父親からは画家になることを反対されましたが、日本画という条件つきで許可され、その後勉強を進め、1933年に東京美術学校(現・東京藝術大学)研究科を修了。当時の日本画は線での描写が主体でしたが、西洋絵画から「塗る」という手法が伝わり、日本絵画は変革期にありました。魁夷も積極的に日本画と西洋画の両方の技法を学んでいます。
1934年に日独間で交換留学制度が開始され、第1回目の留学生としてドイツから2年間の留学費用を支給され、ベルリン大学(現・フンボルト大学)に留学、西洋美術史を学びます。欧州で刺激を受ける日々の中、1935年、父危篤の報を受け、留学を断念し帰国の途につきました。
戦争、肉親の死…傷心の東山魁夷。大きな転機となった「残照」
1939年には第二次世界大戦が勃発。混乱の時代の中でも絵画を続けていた魁夷でしたが、悲しくも父、母、弟を戦後に立て続けに亡くしてしまいます。魁夷自身も1945年に太平洋戦争に招集され、熊本の地で終戦を迎えました。戦争での過酷な経験と愛する肉親の死が、魁夷の心に大きな消失と絶望感を抱かせたことは想像に難くありません。
終戦後、画家として本格的に活動を始めましたが、1946年第1回日本美術展覧会(日展※)に出品するも落選してしまいます。
100年以上の歴史を持つ日本最大の総合美術展覧会。1907年より毎年公募展を開催。現在では、改組新日本美術展覧会(改組新日展)へ名称変更。
精神的な苦しみや焦り、経済的にもどん底でしたが、努力が実り、転機が訪れます。
1947年、第3回日展で「残照」が特選を受賞。39歳でのことでした。この作品をきっかけに魁夷は風景画家として歩んでいくことを決意します。1950年、第6回日展に「道」を出品。この作品が大変好評を得て注目を集め、人気作家として画壇の頂点へ歩んでいきます。
生涯、作品を発表した東山魁夷。皇居、唐招提寺の障壁画制作
東山魁夷は1956年には日本芸術院賞を受賞、1965年には日本芸術院会員に。そして1969年には文化勲章を受章、合わせて文化功労者に選ばれました。
後年の大きな作品として、宮内庁から依頼を受けて東宮御所、皇居新宮殿の壁画の制作や、10年もの歳月をかけて唐招提寺御影堂の障壁画「黄山暁雲」等を制作。文化的な功績も大きく、国内での知名度と人気はさらに高まりました。
多忙な日々ではありましたが、たびたび北欧や中国、ドイツ、オーストリアなどを旅行し、作品のアイデアへと繋げていたようです。しかし、惜しまれつつも1999年に老衰のため90歳で死去。その年に発表した最後の作品となる「夕星」に至るまで、数多くの作品を発表しました。
「東山ブルー」と呼ばれる色使い。東山魁夷の作品の特徴
▲東山魁夷の代表作「緑響く」のモデルとなった長野県茅野の「御射鹿池」
人物を描かず、ひたすらに風景のみを描く
風景画の大家である東山魁夷の作品には、人物が描かれていることがありません。人物を描かないことで、観る人が心情を自然の風景に重ねられるような、穏やかかつ神秘的な絵となっています。魁夷自身が経験した苦しい戦争の中で見た田園風景の美しさに感銘を受け、人間の儚さに寄り添う風景を描きたい、そう心に決意したそうです。すべての作品には、自然の中にある「生命」への感謝と畏敬の念が込められています。
透明感のある色彩。「東山ブルー」と呼ばれる青・緑が特徴
東山魁夷は、日本画と西洋画の両方を学びました。そのため、平明な塗りからは一見すると西洋画のような印象を受けます。しかしながら、そのモチーフである日本の風景の、静謐で神々しい空気感は日本画に通ずるものです。シンプルな構図でありながら奥深い精神性も感じることができます。特徴的な青・緑の色使いは「東山ブルー」と呼ばれ、魁夷自身「青の画家」と呼ばれています。
東山魁夷・作品の評価とは
東山魁夷は名実ともに日本を代表する作家です。出世作となった第3回日展で特選に選ばれた「残照」は政府に買い上げられることとなりました。また、第11回日展出品作「光昏(こうこん)」で1956年に日本芸術院賞受賞、1965年に日本芸術院会員、日展理事となり、1969年に文化勲章を受章。
日展では1950年から審査員を務めていましたが、1974年には理事長に就任するなど、日本の画壇に多大な貢献をしました。死後、その功績に従三位、勲一等瑞宝章が贈られることとなりました。
東山魁夷の作品は日本画の原画のほか、リトグラフやシルクスクリーンといった版画もあり、人気作家のため高値で取引されています。中でも、大きな特徴である「東山ブルー」を使用した作品は非常に人気が高くなっています。
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東山魁夷の作品紹介
「道」
1950年に発表された、東山魁夷の代表作といわれる作品です。タイトルどおり真っすぐにのびる道を、淡い緑と白を基調にして描いています。1940年に青森八戸市にある種差海岸で放牧されていた馬を写生した風景がヒントにあるといいます。
東山魁夷の人生の中で経験した絶望や未来への希望が、複雑な色合いを帯びつつも白くまっすぐにのびる道として象徴的に描かれています。
「緑響く」
長野県の御射鹿池をモチーフに1982年に発表された、東山魁夷の代表的な「白い馬」シリーズの1つです。
樹々の中を白馬が進む姿が湖面に反射し、幻想的な調和を醸し出しています。魁夷が愛した作曲家・モーツァルトの、ピアノ協奏曲・第二楽章の旋律もインスピレーションになっているようです。
自然の雄大さや馬の生命力、穏やかでかつ張り詰めた空気など、心情が風景に投影された作品といえるでしょう。
「秋翳」
1958年の作品です。大きなキャンバスに描かれているのは紅葉した三角形の山と薄曇りの空のみ。
空と山だけの単純な構図ながら、よく見ると紅葉の樹々の色合いは複雑で、驚くほど詳細に描かれています。
抽象的な構図の中に具象絵画が盛り込まれており、日本古来の技法を継承しつつ、新たな日本画をめざした東山魁夷の意欲を見ることができます。
独自の「東山ブルー」の他、類まれな色彩感覚で自然の神秘を表現しきった東山魁夷の作品。
現代でも多くの方々がその魅力に惹きつけられています。
まとめ
90年の長い人生で数々の風景画を残した東山魁夷。透明感のある色彩で描かれた凛とした風景の中に温かさも感じられる作品は、魁夷自らの心情を描くとともに、見る人に寄り添うような優しさも感じられ、多くの人々を魅了し続けています。
東山魁夷は昭和を代表する日本画家のひとりであり、今でもたびたび個展が開かれている人気画家です。
国内外で作品の評価も高く、買取査定の評価が高い作家です。キズや汚れがついた作品であっても、作品によっては高値で取引されています。東山魁夷の作品の買取を検討している方は、お気軽にご相談ください。
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