日本画の極意を堪能。初心者におすすめの作家10名と代表作をご紹介
あなたは「日本画」と聞いてどのような絵を連想しますか? 日本画といってもモチーフは美人画から風景画など多岐に渡ります。墨で描かれた水墨画や色彩豊かな作品まで技法もさまざまです。この記事では日本画のイメージがつかみやすいよう10名の日本画家を紹介します。それぞれの画家と作品の魅力を知り、日本の絵画・日本画を楽しみましょう!
日本の絵画「日本画」とは?
「日本画」という言葉は、もともと明治時代にヨーロッパから来た「油彩画・西洋画」と区別するために生まれたとされています。それ以前の日本の絵画は「やまと絵」と呼ばれていました。平安時代、中国的な主題を扱った絵画が「唐絵」で、日本の伝統的な絵画が「やまと絵」でした。「やまと絵」以外に、「狩野派」などの流派で呼ばれる時代もありました。
現代では、画材によって日本画かどうかが区別されます。日本画は、画材としては墨や岩絵の具、胡粉などの天然絵の具、時には金箔などの金属素材が使用されます。絵の具自体には接着力が無いため、膠(にかわ)を使ってキャンバスに定着させます。日本画のキャンバスには、和紙や絹、漆や漆喰などの天然素材が使用されます。このように日本の伝統的な画材を使用した作品が日本画と呼ばれています。
それでは、以下日本画を代表する作家10名とそれぞれの代表作をご紹介します。
現代の琳派「加山又造」。新たな日本画の道を切り開く。
加山又造は、戦後の日本美術界の代表的な人物で1927年に京都に生まれました。祖父は四条・円山派の絵師、父は京都・西陣の意匠図案師。幼い頃から絵に親しんで育ちます。
又造はラスコーの洞窟壁画からブリューゲル・ルソー・ピカソ、シュルレアリスムやキュビズムと幅広く西洋絵画を研究。一方で日本ならではの美を追求し続け、日本画に新しい風を吹き込みました。現代的な感覚で華麗な装飾や大胆なデザインを描き「現代の琳派」とも称されています。
作品は動物画、裸婦画、水墨画など、多様なモチーフを選びました。作風はおよそ10年ごとに大きく変化。晩年も高い創作意欲は衰えず、日本画の表現の可能性に挑戦し続けた生涯でした。
●加山又造の代表作「鶴」
加山又造は鶴をモチーフにした作品を多く制作しました。背景には銀箔でうねるように大空が描かれ、反復する鶴のモチーフは今にも羽ばたきそうに見えます。大胆な構図はまさに琳派を思わせる作品です。
「日本の美を追求した結果、琳派へたどり着いた」と加山又造本人も述べています。
伝統と革新の融合で日本画の新たな道を切り拓く。「現代の琳派」と称された画家・加山又造
花の画家「堀文子」。みずみずしい感動と自由を求め続ける
堀文子は女性の自立が難しかった大正・昭和において精力的に活動し、花を多く描いた女流画家です。
堀文子は1918年、東京に生まれました。42歳で夫と死別した後は「一所不在(一か所に長くとどまらず、居所を定めずに旅をすること)」を信条とします。常に新たな感動を求めて、日本のみならず海外のさまざまな都市を旅し、精力的に活動。雄大な自然と向き合い、芸術表現を模索していく中で伝統的な日本画の美しさに回帰します。
「幻の花・ブルーポピー」は、彼女の代表作の一つ。82歳のときに文子はこの花を探しにヒマラヤを訪ねたといいます。83歳で病に倒れるものの、復帰後は顕微鏡で見る微生物の世界を表現しました。2019年に100歳で亡くなるまで、多くの作品を残しました。
●堀文子の代表作「アスパラガスとさくらんぼ」
堀文子は絵画のほか、料理本の表紙絵や本の挿絵も多く手掛けました。花・野菜・果物などの自然をモチーフにしています。代表作「アスパラガスとさくらんぼ」はその意外なモチーフの組み合わせから、文子の遊び心が伝わってきます。
新たな感動と自由を求め続けた「花の画家」。堀文子のプロフィール・作品の魅力に迫る
大正ロマンの象徴「竹久夢二」。美人画が大人気
竹久夢二は、大正時代を代表する画家の一人。モダンアートの先駆けともいわれる独特な美人画を目にしたことがある方は多いのではないでしょうか。
夢二は1884年に岡山県に生まれました。17歳で上京し、早稲田実業学校専攻科に入学。在学中に生活費を稼ぐため新聞に風刺画を描いたのが画業の始まりでした。
1902年に初画集「夢二画集-春の巻」を発売すると、たちまちベストセラーに。憂いを帯びた眼差しやあでやかな衣装の女性画は若い女性の間で大人気。夢二の絵のファッションを真似するモガ(モダンガール)が多かったそうです。カラフルな色使いやモダンでスタイリッシュな作品は従来の日本画とは一線を画し、「夢二式美人画」と呼ばれました。子供向け雑誌の挿絵や広告デザインも手掛けた夢二は、多くの大衆の心をつかみました。まさに大正ロマンの象徴的な画家といえるでしょう。
●竹久夢二の代表作「女十題:黒猫」
「女十題」は10人の女性を描いた連作で、竹久夢二の代表作の一つです。
「黒猫」は洋装を着こなし、こちらを見つめる凛とした女性を描いています。明るい髪色の女性と黒猫のコントラストがデザイン的にも美しく表現されています。
現代モダンアートの先駆け。大正時代のロマン画家・竹久夢二
日本の風景画の大家「東山魁夷」
東山魁夷は昭和を代表する風景画家の一人。魁夷は1908年、横浜市に生まれました。
父親からは当初画家への道を反対されましたが、日本画を学ぶ条件で許可を得、東京美術学校へと進学。当時は日本画の変革期で、魁夷は積極的に日本画・西洋画の両方の技法を学びました。
第二次世界大戦の最中に肉親を亡くし、自身も戦地で過酷な体験を強いられます。魁夷は絶望の中でも、眼前に広がる田園風景の雄大さと美しさに感銘を受け、人間の儚さに寄り添う風景を描きたいと決意します。
1947年に日本美術展覧会で「残照」が評価され、魁夷は本格的に風景画家として歩むことに。その後発表した「道」が好評を得、人気画家となりました。
魁夷が描く作品には、自然の中にある「生命」への感謝と畏敬の念が込められています。特徴的な青・緑の色使い「東山ブルー」から、「青の画家」とも呼ばれます。
●東山魁夷の代表作「緑響く」
1982年に発表された東山魁夷の代表的な「白い馬」シリーズの1つです。樹々の中を白馬が進む姿が湖面に反射し、幻想的な調和を醸し出しています。自然の雄大さや馬の生命力、穏やかさと張り詰めた緊張感が同時に表現された空気など、心情が風景に投影された作品と言えるでしょう。
日本を代表する画家・東山魁夷とは。生命への感謝と祈りを風景画に込める
天才画家「菱田春草」。新たな日本画の創造に尽力した生涯
菱田春草は1874年、現在の長野県に生まれました。16歳で東京美術学校に入学。一つ上の学年の日本画家・横山大観や下村観山とは長きに渡り交流を深めました。当時の学長・岡倉天心から春草は高い評価を受け、卒業制作の「寡婦と孤児」は最優等に選ばれました。
春草は大観らと新たな日本画の表現を模索し続け、試行錯誤の中で「朦朧体」という技法を生み出します。朦朧体とは、色彩の濃淡でモチーフを表現する独自の技法で、輪郭線を描く日本の伝統的な絵画とは一線を画しています。西洋絵画の空気遠近法を取り入れた画風は海外で「神秘的」と高い評価を受けたことがきっかけで、発表当初は批判的だった日本での評価も上昇していきました。享年36歳という短い生涯ながら、菱田春草は以降の日本画に大きな影響を与えた天才画家です。
●菱田春草の代表作「黒き猫」
柏の木に金泥で描かれ、落ち着いた輝きを放つ柏の木。その根元にじっと座り、こちらを見つめる黒猫。今にも動き出しそうな野性味とかわいらしさを感じる黒猫と、柏の葉のコントラストが見事です。
春草が34歳で眼病を患い失明の危機にさらされながらも描かれた作品で、現在は重要文化財に指定されています。
伝統的な日本画の世界に革新的な技法で挑んだ天才画家・菱田春草
京都画壇の巨匠「竹内栖鳳」。近代日本画の先駆者
竹内栖鳳は1864年、京都に生まれました。四条派の土田英林、幸野楳嶺に師事し、若き日より才覚を現します。23歳で独立後は数々の博覧会で受賞を重ね、京都画壇で広く名前が知られるようになりました。後継の育成にも尽力し、自ら画塾「竹杖会」を主宰。上村松園など、優秀な門下を多く輩出しました。
36歳の頃、パリ万博とヨーロッパ絵画の研究を兼ねて海外へと美術行脚。西洋画や中国絵画の研究を熱心に行い、帰国後は写実的な動物絵やセピア調の西洋風景の作品を発表。西洋かぶれと批判されることもありましたが、逆風にも負けず独自の日本画を確立しました。
竹内栖鳳の画風は、近代的な写実主義を基本としています。そこに狩野派や大和絵などの日本の伝統的な流派と西洋画の技法を取り入れ、革新的な近代日本画を生み出しました。
現代では「東の大観、西の栖鳳」と言われ、高く評価されています。
●竹内栖鳳の代表作「松魚」
縁起の良い魚とされる「松魚(かつお)」を、ハリとツヤのある銀の皮、脂が乗った様子までリアルに描写しています。竹内栖鳳は掛け軸も多く手掛けており、日本画と西洋画、両方の要素を兼ね備えた独自の作品は、和・洋どちらの空間とも良くなじみます。
明治から昭和に活躍した京都画壇の巨匠・竹内栖鳳
日本の巨匠「横山大観」。朦朧体を確立
横山大観は1868年に現在の茨城県水戸市に生まれ、明治・大正・昭和に渡り活躍した日本画壇の巨匠です。
1989年、東京美術学校に第1期生として入学し、岡倉天心や橋本雅邦などに師事しました。卒業後は京都へ移住し仏画の研究をします。その頃から「大観」を名乗り始めました。
新たな日本画を模索した大観は、菱田春草らとともに「朦朧体」を編み出します。現在では大観の代名詞とされる朦朧体とは、色彩の濃淡によって構図やモチーフの形、光を表現する技法です。薄めた墨を紙の上で伸ばすことで美しいグラデーションを作り出し、幻想的なタッチを実現しました。西洋画、とくに印象派の影響が大きく見られます。
伝統的な日本画の特徴とされる輪郭線を描かないため、当初は「ぼんやりとした画風」と低く評価されていました。しかし海外へ拠点を移し、インド、アメリカ、ヨーロッパの各地で高い評価を得た大観の絵画は、日本国内でも少しずつ高く評価されていきます。今では日本を代表する日本画家の一人となりました。
●横山大観の代表作「富士」
横山大観は富士山をモチーフとした作品を多く手掛けました。裾野にたなびく雲と、はるか上に見え隠れする富士の頂上が、墨の濃淡で表現されています。優雅な美しさと、霊峰の存在感、神々しさが感じられます。大観の自然に対する畏敬の念が込められた作品です。
新時代の日本画「朦朧体」を確立した稀代の巨匠・横山大観
円山派の祖「円山応挙」。江戸時代後期に活躍
円山応挙は1733年、現在の京都府に生まれました。狩野派の流れを引く画家・石田幽汀に師事し、絵画を学びました。
応挙は中国画で用いられていた写生の技術を研究し、日本の伝統的な装飾画法と写生を融合させたインパクトの強い独自の画風を確立。写生を特に重視し、暇さえあればスケッチをしたと伝えられています。
江戸時代には写生を基本とした画風は珍しいものでした。応挙は写生をそのまま発表するのではなく、伝統的な画風を学び取り入れることで、人気絵師となりました。この画風はのちに「円山派」と呼ばれるようになります。
応挙の作品は現代にも広く伝わっていて、足の無い幽霊を描き始めた最初の画家とも言われています。また最近では3匹の仔犬が描かれた「仔犬図」がSNSなどでも人気で、江戸時代から現代まで老若何女問わず愛されています。
●円山応挙の代表作「虎図」
動物を数多く手がけた応挙。その中でも虎は人気のモチーフです。しかし当時の日本には虎がいなかったため、虎の毛皮から想像して描いたそうです。まるで見たことがあるかのように生き生きと表現できるのは、写生を最も大切にしていた応挙ならではといえるでしょう。
江戸時代後期に活躍した天才絵師・円山応挙
モダンで新しい現代の日本画家「千住博」
千住博は1958年、東京都に生まれました。父は工学博士、母は教育評論家でエッセイストであり、芸術を身近に感じられる環境で育ちました。
1978年、東京芸術大学に入学し、日本画を専攻。東京育ちの千住博は自然の力強さや美しさに感銘を受け、風景画の道へ進みます。1993年、「フラットウォーター」を発表。ハワイのキラウエア火山の溶岩が海に流れ込む様を描き、ニューヨークの美術雑誌「ニューヨークギャラリーガイド」の表紙を飾るなど絶賛を受けました。1995年に代表作「THE FALL」を発表。滝を題材にしたこの作品は、発表時に館内全域に水を張り全ての作品が水面に反射するというこだわりの会場構成で行われました。
空港や駅に展示するパブリックアートの制作も積極的に行っており、羽田空港新ターミナルにおける18mの滝の作品が有名です。
自然の中に美を見出し、作品は淡く幻想的な色使いの中にも自然の生命力を感じさせます。伝統的な天然素材の画材を使用した日本画の技法で、モダン且つスタイリッシュな作品を制作し続けています。
●千住博の代表作「ウォーターフォール」
滝を描いた作品は千住博の代名詞とも言われており、水しぶきや涼しげな空気感まで伝わってくるようです。世界的に活躍し、東洋人で初めてヴェネツィア・ビエンナーレで名誉賞を受賞した、名実ともに現代のトップアーティストです。
「THE FALL」で知られる国際的画家・千住博。そのモダンで新しい日本画の世界
絵画も手掛けた文豪「武者小路実篤」
武者小路実篤は文豪として有名ですが、同時に絵画も多く残しました。実篤は1885年、東京都の由緒正しい家柄に生まれました。東京帝国大学に入学後、志賀直哉や有島武郎らと交流し、文学雑誌「白樺」を創刊したことから実篤らは白樺派と呼ばれています。文学活動の傍ら、階級闘争のない理想郷を夢見て「新しき村」を建設するなど、自らの理想の実現を目指しました。
もともと美術に関心が高く、雑誌の中で多くの西洋画家を紹介していた武者小路実篤。長女が生まれたのをきっかけに、40歳をすぎてから絵筆を取りました。モチーフはありふれた野菜や果物たち。いつでも描きたいときに描ける一番のモデルでした。
色紙に描かれた素朴なタッチの絵の横には、手描きの短い言葉「讃」が添えられています。小説家、画家として両方の面を持った武者小路実篤ならではの作品といえるでしょう。
●武者小路実篤の代表作「仲良きことは美しき哉」
武者小路実篤は様々な野菜を描きましたが、中でもかぼちゃを多く描きました。素朴な野菜の絵があたたかさを感じさせ、讃とともに人々に寄り添い勇気づけてくれます。手掛けた色紙は戦後多くの家庭に飾られ、市井の人々にとって身近な作品でした。
絵画も残した文豪・武者小路実篤。作品は小説同様、人間讃歌に溢れる
まとめ
日本の伝統的な画材を用いながら、技術やモチーフはその時代によって新しいものを取り入れ、革新を続けている日本画は、日本人のみならず、世界中の多くの人々を魅了し続けています。
作品が描かれた背景を知ることで、より作品への理解が深まっていきます。多くの作品に触れて、好きな作品や好みの作家を見つけていきましょう。
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